「チェルノブイリ原発事故後のドイツと、東ベルリンで始まった保養」

先日、牛窓での講演会の際に知り合ったドイツ在住のフリージャーナリスト・梶村太一郎さん。その後、渡辺がお時間をもらってインタビューさせてもらい、記事が出来上がりました。

チェルノブイリ原発事故後のドイツと、東ベルリンで始まった保養

1974年から渡独し、旧西ドイツ時代からベルリンに在住するフリージャーナリスト梶村太一郎さんに話を伺いました。梶村さんは、ベルリンの壁崩壊や東西ドイツの統一などの歴史的な出来事を、眼前で体験した数少ない日本人です。
1986年に旧ソ連起きたチェルノブイリ原発事故を、4歳と10歳の子供をもつ生活者としてベルリンで体験。さらにジャーナリストという立場から、東ドイツで始まった保養(子供たちを放射線量の低い地域に一定期間疎開させ、免疫力を高めて健康な体を取り戻す合宿)をいち早く日本に紹介するなど、ドイツと日本の貴重な架け橋的な存在です。
その梶村さんに、チェルノブイリ原発事故直後のドイツ国内の反応や、東ドイツで始まりその後ベラルーシでは国策となった保養のことを伺いました。
(ベラルーシでは、3歳から18歳までの子どもたちが、無料で年間最低24日間の保養を受けることができます。現在でも年間10万人が利用しています)

—————- —————- —————- —————- —————- —————-

チェルノブイリ原発事故後のドイツ

チェルノブイリ原発事故(1986年4月26日)が起きた次の日のことは鮮明に覚えている。この事故を西側で最初に感知したのはスウェーデンの原発だった。線量計が異常な数値を検出したが、国内の原発には特に異常が見当たらない。疑問に思った専門家たちが、その日の天気図をもとに推定したところ、ウクライナ近郊で何か重大なことが起きているということをつかんだ。
チェルノブイリの事故が起きた翌日。まだ何も知らなかった私は近所のベルリン工科大学の構内を自転車で突き抜けた。すると学生たちが立て看板を掲げている。よくみるとそこには手書きで「大事故が起きている」と書いてあった。おそらく学生たちは、スエーデンからの報道により、研究のために使用して放射能測定器の数値を見て異変に気付いたのだろう。それが私の最初の体験だった。

図1

私が住むベルリンは事故当時たまたま高気圧に囲まれていたために汚染の程度は小さかった。しかし、スカンジナビア半島をぐるりと回り南下した放射性プルームによって南ドイツが汚染された。ミュンヘンがあるバイエルン州が最もひどかった。西ヨーロッパも広い地域で汚染された。私はワインが好きだが、ワインの産地の一つにフランスのコルシカ島がある。チェルノブイリ原発から2000キロ以上の離れたところにあるが、ここは今でも汚染が残っていて、島民たちは正しい情報を流さなかったフランス政府に対して訴訟問題を起こしている。またウクライナに面している黒海の魚もだいぶ汚染され、トルコでも問題になった。
当時のドイツは東西に分かれていたが、ソ連支配下の東ドイツでは隠蔽政策がとられた。しかし西ドイツでも事故直後は「心配ない」「大したことはない」といった見解が政府から何度も出された。これは福島原発事故の時の日本政府と同じだ。西ドイツですらそうだった。しかし市民の間では、子供を外で遊ばせるな、生野菜は食べるななど、身を守る方法が広がっていた。

福島原発事故後の日本政府の対応で思わず笑ってしまったのが、当時の官房長官であった枝野氏が事故の一ヶ月後に福島県のいわき市に赴き、野菜をかぶりついて見せた時だ。なぜならチェルノブイリ原発事故後にバイエルン州の環境大臣がまったく同じようなことをしていたからだ。彼が記者会見で汚染された粉ミルクをなめて見せたため、スキャンダルとして歴史に残っている。

ドイツのメディアも事故直後は放射性物質の危険性の裏が取れないため、「市民たちが生野菜を食べない方がいいと言っている」といった伝聞情報を伝える程度の報道しかしていなかった。
しかし、西ドイツでは食料品の汚染を測る市民運動が各地に起きた。ベルリンでもドイツ放射線防護協会の機関誌『シュトラーレンテレックス』の発行が始まった。これは市民が持ち込む食料品の汚染度を図り、月報でみんなに配るという市民運動。共感する市民や専門家が寄付をしてこの活動を支え、2018年まで28年間も続いた。ここまで継続できたのは、現在でも放射性物質による食品汚染に対してドイツ国民は関心を持ち続けているということであり、現在でもなお汚染は続いているということ。実際、汚染がひどかったバイエルン州では、今でも狩猟されたイノシシの肉を市場で売る際には放射能数値を測定しないといけない法律がある。ポーランドではきのこの王様と呼ばれるシュタインピルツが収穫され広く市場に出回っているがまだ汚染されているものもあるはずだ。
また、ドイツは陸続きで近隣諸国とつながっている。チェルノブイリの事故当時、ドイツは東ヨーロッパから農産物をたくさん輸入していた。事故を受け、国境沿いで農作を積んだトラックが追い返される。そういった事実が報道され始め、徐々に気をつけなければならないという認識が庶民レベルで広がっていった。

ドイツは福島原発事故の二ヶ月後に、2022年末までに国内すべての原発を停止させることをメルケル首相が決定するなど、脱原発に大きく舵を切った。しかし、歴史的に考えるとこの1986年のチェルノブイリ原発事故がドイツのエネルギー政策に決定的なインパクトを与えた。ドイツでは1970年代のはじめ、ヘルムート・シュミットが首相であったころのドイツ社会民主党(SPD)も、全電力を原発によって供給するというエネルギー計画を立てていた。事故が起きた1986年は脱原発を主張する緑の党(1979年発足)が力をつけてきた時代であった。そしてチェルノブイリ原発事故は彼らの主張していたことが現実となった出来事であり、ドイツ社会民主党も脱原発路線へと方向転換し、フクシマ事故が駄目押しとなり保守政権もついに原発から完全に撤退することになった。

東ドイツで始まった「保養」

ベルリンの壁崩壊直後の1990年の初めのこと。東ベルリンのプロテスタント教会の牧師がベラルーシの子供を数人保養に引き受けたという話を聞いた。興味をもったので牧師に話を聞きにいった。
牧師が住んでいたところは、東ベルリンにある小さな教会のそばの家。牧師には子供が二人いて、ベラルーシから同年齢の子供を二人預かっていた。東ドイツの人たちは社会主義教育のもとで育てられたので、ロシア語ができる人が多い。そしてプロテスタント教会のネットワークも手伝い、牧師は子供たちを受け入れることになった。これが今でいう保養の始まりであった。
(注:ベラルーシは、ソ連崩壊までソ連邦の一国で、現在でもベラルーシ語と並んでロシア語が公用語となっているほど、ロシア語話者が多い。故にロシア語を話せる東ドイツ国民とのコミュニケーションが比較的容易であった)

また、牧師が教えてくれたベラルーシの子供達の話の中には、彼らが住むドニエプル川沿岸では毎朝川魚をダシに使ったスープを飲む習慣があるのだが、事故が起きてからその川魚が数倍に巨大化したという。
元来、西ドイツの市民運動は活発であったが、ドイツの再統一と同時に旧東ドイツも含めて至る所で保養システムが立ち上がった。
そして、日本の人たちも反応し、市民運動や生協運動、市民派の市会議員なども一緒に、日本でもチェルノブイリの子供たちを受け入れる保養が始まった。
私も、日本でチェルノブイリの子供たちを受けいれている保養団体の人たちと二度ベラルーシを訪れた。ミンスクで出会った強制移住地域から来たある女の子は強い弱視であった。現地の専門家の話を聞いてみると、脳溢血や糖尿病など、本来であれば子供達にはありえないような老人病が非常に多く発症していた。放射能汚染の残酷さとは凄まじいものだ。